余人に代え難い人とか仕事はあるのか?
新型インフルエンザについて、さなえさんが「余人に代え難い人とか仕事は、首相を含め、ないのだから。」と書いておられるので、明後日の方向^^からちょっと突っ込んでみます。
とても稀にあるような気が致します、例えば織田信長が殺された後は豊臣秀吉を中に挟んで徳川家康になりました、当時の中国は明朝の末期...秀吉の朝鮮遠征がその滅亡を早めたとも言われています、家康の系統は鎖国の世を造りましたが、もし信長なら成功したかどうかは藪の中ですが、通商を武器に外に出て行ったと思われます、70歳まで生きたとすれば残り20年で、死ぬのはちょうど関ヶ原の頃です、家康は殺されていたかもしれず、どんな時代になったことやら...
明治維新後に日本は富国強兵を行い、欧米列強の植民地になることを逃れましたが、今のグータラ政権だと恐らく...ムニュムニュ(苦笑)、当時の人の猛烈な危機意識が日本を救ったワケです、まあ発熱したサラリーマンが約1名出社したかどうかで世の中はまったく変わりませんなあ、ただそのサラリーマンが電車内で中小企業の社長親爺を感染させ、その親爺に万が一の事態が発生すると、路頭に迷う人が何人か出てまいります、大企業ならキャノンのように社長が替わるダケですが...
戦国の世に戻りまして家康を長命としたのは、自分が豊臣を滅ぼさねば秀吉の子孫に自分の子孫が滅ぼされるという、脅迫にも似た観念であったとされます、彼は自分で薬を調合するなど、食事も含め豊臣家滅亡まで命への努力を怠りませんでした、豊臣家最大の失態はこれは家康の策謀でもあるわけですが、ひとつには関ヶ原において文治派の石田三成と武断派の加藤清正・福島正則に分裂してしまったこと、もうひとつは家康の死をノラリクラリと待てなかったことです。
さて人の死を招くのは油断...気の緩みです、家康は享年74歳...寿命だったのかもしれませんが、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした直後に、一説に天麩羅に当たって命を落とします、織田信長が本能寺で斃れたのも、当時最大の難敵だったとされる武田氏を、天目山で滅ぼしたのと同じ天正十年(1582年)です、この重大事がなければ彼ほどの傑物が、ほぼ無防備で京都に宿泊するなどとはとても考え辛いです。
で武田信玄が亡くなったのが天正元年ですから、この間ほぼ10年の月日が流れています、ちなみに関ヶ原が1600年で大阪夏の陣は1615年で、家康は59歳から74歳になっています、今は人間75年(男の場合)ですが、当時は信長が好んで舞ったとされる敦盛にあるように、人間50年でありました、秀吉が後10年長生きをすれば、英明だったとされる秀頼は15歳になっています、関ヶ原など起こりようもなく、家康が危惧したとされる秀頼対秀忠の、息子対決になったのかもしれませヌ。
ただ秀頼の息子国松が家康の孫である千姫の子であったのなら、あそこまで苛烈だったのかはわかりません、その可能性を含めての千姫の豊臣家輿入れであり、望んで受け入れた秀吉の意向でもあったワケです、そのあたりを淀君がどう認識していたかどうかは定かでありません、一説に遠ざけさせていたという話しもあり、このことは今川出身の母が信長を恨んでいたとされ、織田家から輿入れした徳姫に辛く当たり、そのことが自身の破滅に繋がった、家康の惣領息子・信康を思い起こします。
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