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July 31, 2008

墨東綺譚から般若心経と歎異抄へ

昨日永井荷風さんの『墨東綺譚』を読んだ、でそのこととは何の脈略もないハズだが、今日本屋さんに行ってまず目に付いたのが『般若心経』の解説本の多さだった、ひろさちやさんのをはじめとして10冊近く直ぐにみつかる、そして浄土真宗の開祖とされる親鸞聖人の教えを、弟子が書き留めたとされる『歎異抄』の、五木寛之さんによる現代語訳が発売されていた。

般若心経@YOUTUBE(02:19)歎異抄(原文)

さてこういうモノを解説本から入るのはイクないというのがボクの持論だ、まず原典にあたり自分の中で自分の中でその解釈を醸成する必要がある、とは言っても漢文の経典をそのまま読めるハズもないので現代語訳は必須である、日経ビジネス人文庫のひろさんの現代語訳を読んでみたが、いまいちヨウ理解できない。

人気ランキングはどうなっているんだろう?

まず『空』という概念が茫漠としてつかめず、そして彼の訳には小乗仏教への批判が含まれている、元々そういうニュアンスのある経典なのかもしれないが、それではこの経典の価値を損ねることになる、ということでネットで現代語訳を探してみた、ひろさちやさんの他に花山勝友さん瀬戸内寂聴さんの訳があった、ボクには花山さんの訳がわかりやすい。

以下は加筆修正するうち、『般若心経と歎異抄からみえる闇の奥』と言った趣きの文章になりますた、この二つを殊更に批判しているワケではありませんが、宗教とはあくまで心の中にしまって置くモノであると思います。

《般若心経と歎異抄からみえる闇の奥》

さて般若心経は元々サンスクリット語で書かれたものが、西遊記で名高い唐の法師・玄奘三蔵が中国語に訳したものが流布し、日本にも伝播した大乗仏教の経典のようだ、『色即是空、空即是色。』...ボクの知っている般若心経はこの程度だw。

花山さんの現代語訳によると、『したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。』となる、『空』とは実体なきものか...最後に知恵の完成こそが真言と書かれているが、ひろさんが言うような仏ではなく、人によるべきだとボクは思う。

歎異抄で有名なのは『善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。』で始まる、下記の第三条の一である、そう言えば五木さんに『他力』という本がありましたな、ただ何もせずに他力をただただ頼み参らせるのは如何なものかと思う、親鸞聖人の真意はそういうモノではないという解釈もありますが...

以上のことを書いたのは、バブル崩壊後のオウム事件を発端として、最近貧困層の若者を中心に愛国心と書いて、その名の通りのパトリオティズムならヨイのですが、自国・自民族・同教徒のことしか考えず、他国・他民族・異教徒を排斥するというナショナリズムの台頭が目立つからです。

この原因は彼らにはないとボクは考えます、真犯人はノブリスオブリージュの欠片もない、狡猾な大企業経営者にあるのではないかと思うワケです、大企業の牽引なくして日本の繁栄はありません、でも日本人をエリート指導層、高度専門家層そして使い捨て層と、三つに分けて差別するのは如何なものでしょうか。

それより彼ら使い捨て層に光を当て、生かして行くことこそ日本の世界に希望が生まれて来ると思うわけです、自分の心の救いの場として宗教は必要です、でもココに頼り切るとロクなことにはならない、そのことは既に歴史が証明していることです。

会社は確かに株主のものだろう、株主が供出してくれたカネで運営されるからだ、でもそれ以前に社会に貢献する公器であるべきだ、非正規社員の賃金が低いと言われている、ボクは彼らの待遇を向上させるとともに、正社員の待遇を下げて合わせるべきである、ここで大事なのが社会に貢献する公器という部分だ。

将来幹部となるあるいは高度な専門技術を持つ優秀な社員を繋ぎとめるのに、巷では多額のカネが要ると言われている、でもボクは思う、自分の会社が社会に貢献する公器であるならば、彼らも給料を下げられるのには抵抗する...というか逃げ出してしまうだろうが、アップしなくても納得すると考える。

このことは株主にも当て嵌まる、今米国のCEOが莫大な報酬を得ているが、そういう会社は早晩持たなくなるのではないか...米国が今のように上に手厚く下を虐げているならば、ベンチャー&イノベーションでは勝てなくとも、日本のフツーの会社が米国企業に負けることはないように思う、今そのことが典型的に出ているのがビッグスリーが没落した米自動車業界である。

アレ、お前はトヨタを批判していたではないかと言われるかもかもしれないが、それはアメリカの自動車会社との比較論の問題だ、キャノンが偽装請負を止めれば、トヨタがアキバで事件を起こした派遣塗装工を、惨めな低賃金と不安定な労働環境で雇ってなければ、彼らの製品の品質はヨイと言われている今よりさらにアップし、不良品率が激減するので一石二鳥じゃないか。

《歎異抄・第三条の一》

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。

しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

《般若心経:現代語訳・花山勝友》

観音菩薩が、深遠な知恵を完成するための実践をされている時、人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。そして舎利子に向かい、次のように述べた。

舎利子よ、形あるものは実体がないことと同じことであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。残りの、心の四つの働きの場合も、まったく同じことなのである。

舎利子よ、この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、増えることもなく、減ることもないのである。

したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚も念想も意志も知識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。

さらに、悟りに対する無知もないし、無知がなくなることもない、ということからはじまって、ついには老と死もなく、老と死がなくなることもないことになる。苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。知ることもなければ、得ることもない。

かくて、得ることもないのだから、悟りを求めている者は、知恵の完成に住する。かくて心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがなく、あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、永遠にしずかな境地に安住しているのである。

過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は、知恵を完成することによっているので、この上なき悟りを得るのである。したがって次のように知るがよい。

知恵の完成こそが、偉大な真言であり、悟りのための真言であり、この上なき真言であり、比較するものがない真言なのである。これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである、と。

そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。すなわち次のような真言である。

往き往きて、彼岸に往き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。めでたし。

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