鬼は人の心の中に棲む(表意文字の良さ)
花魁(おいらん)は花、鬼、斗と書く、魅力(みりょく)は鬼、未、力と書く、どちらにも共通しているのは「鬼」という文字だ、小説・映画などの「陰陽師」によると平安時代は百鬼夜行、魑魅魍魎が跳梁跋扈した時代なのだそうだ、ここにも「鬼」という文字が入っている、ではこの世に「鬼」はいるのであろうか、ボクは外の目で見える世界にはいないと思う、でも人の心の内なる目で見えない世界に生息しているとヒシヒシと感じるのである
「鬼」はあるときはとてもエレガントで魅力的だが、心の内部が崩壊すると「鬼」が心の内外の境界近くまで浮き出て来て、その人の行動が非常にアロガント、つまり物凄く傲慢で暴力的になってしまい、個人では殺人、組織としては不正、国としては戦争を引き起こすことになると思う、やはり人間はこの世に生を受けたらこの何とも魅力的な存在である「鬼」を、個人も組織もそして国もコントロールつうか司らなければイケナイのだと思う
尚、この文章はさなえさんが書かれた「角館、酒田そして鶴岡」という記事にインスパイアされたものである、さなえさんは地方の旧家に残る古いお雛様は、武家にしろ商家にしろ何世代にも渡る女性の気持ち、ボクは怨念にも似たものがあると思うが、籠もっていて恐いとおっしゃっている、「人形は怖い。表情がある。本当は魂があるのではないかと思う瞬間がある」と書いておられる
さなえさんが「斗」は何の意味だろうとおっしゃっていたが、一斗樽とか斗酒を辞せずとか言いますでしょ、「斗」って液体の容積を量る単位ですから、転じてお酒の隠語ではないでしょうか、そして「花」は上から草、化と書く、つまり「花」は草の化身で女性をあらわしますよネ、なので花魁っていうのは人(男)を酔わせるものじゃあないかと思うワケです
さて、話しは変わるがあっしは子供の頃から漢字が苦手だ、今でも憂鬱の「鬱」という文字は書けない、国語の成績が良かったためしはない、でも漢字は書けないが何故か読めない漢字もない、パソコンで資料を作るのが定着したのはこの10~15年のくらいだろうか、ならもう漢字の不便はないはずだ、表意文字の良さを生かすべきではないかそう思う、如何だろか?
沢=澤、広=廣、竜=龍、桜=櫻であることが知っている人はどのくらいいるだろうか、ボクは無理に元に戻せとは言わない、ただ今の学校教育では古文と漢文はないがしろにされているようだ、清少納言の「枕草子」とか鴨長明の「方丈記」などをそのまま読めない子供が多いときく、「国家の品格」を書かれた藤原さんではないが、これではもののあわれなどの日本の美的感覚が失われかねないと懸念している
先日東京ドームのWBC韓国戦での電光掲示板の案内をみてビックリしたことがある、3種類ではなく4種類の文字が使われていたのだ、日本語、ハングル語、中国語そして台湾の中国語である、ソウ台湾の中国語の漢字が昔の文字だったのだ、ボクは日本の漢字はともかく中国の行き過ぎた漢字の簡易化は如何なものかと思う、パソコンで文章を作る時代になったのだから少々改めてもいいように思う
《追記》
コメントありがとうございます、鬼をエレガントな存在にしなければいけないのだと思います、まあたぶんに逆説的であり、パラドックスではありますが...
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Comments
修行が足りないのか鬼をエレガントに感じることはないですねえ。鬼のエージェントに追い立てられ髪振り乱して仕事をしている私は、現在、仕事の鬼状態ですが…ああ、ブログを見ているときではないのに、またもや巡回してしまった(涙)
Posted by: さなえ | March 11, 2006 07:31 AM