チャンスを与えろ!
ボクは周りも貧しい時の貧しさと周りが豊かな時の貧しさは違うと思います、周りが貧しい時は自分が貧しくても上を向いて生きていけるんですな、ココを読んでみてください、でも周りが豊な時はどうでしょう、親が悪い、特に男親がだらしがないというのは簡単です
でもネ、それって勝ち組、エリートの発言ではなかろうかと思うときがあります、もちろん親の躾が悪いことは事実で改めなくてはいけません、でもそういう膿が出てこない社会をつくることの方が優先されるのではないでしょうか、一番大事なのは入口、機会の均等ではないかと思います
で、 チャンスを与えろ! と言ってます
そして、出口もどうでしょう、ビョン・ボルグが逃げ出すような、昔のスウェーデンのような揺り篭から墓場までというような、高度福祉社会は明らかにやり過ぎですが、今のアメリカ、そして日本にも拡がっている、ウィナーズテイクオール、勝者は有り余るカネを持て余すが、敗者はその日の暮らしにも汲々とするような新自由主義も如何なものかと思います
ボクは自分は親は駄目でも、息子・娘に夢が賭けられる世界にしなければいけないと思います、次も諦めているから躾が良くならないんじゃないでしょうか、昔、と言っても明治維新の後からですが、貧しくても未来があったから躾がキッチリしていたと思うわけです
《追記》
コメントありがとうございます、確かにそうですね、でも今のこのいわくいい難い澱み、過去に感じたことのない停滞感、何なんでしょうね、多くの人が抱いているこの感情を払拭しないと、今後も嫌な事件ばかり発生し、浮かび上がってこないような気がします
《追記2》
TBありがとうございます、答えはひとつじゃないでからネ、本当にたくさんの仮説を立てて検証していく必要があると思います
The comments to this entry are closed.
Comments
戦前の日本には多くの貧しい人たちがいましたが、同時に華族、地主、財閥などの力も強く、明確な格差がありました。私は、彼らが残した邸宅を訪れると愕然とします。やはり実際の社会は、均質な蒸留水のようなものではなく、淀みがあり、うねりがあり、清流があり・・・と濃淡や陰影があるものだと思います。どんな時代にも、どんな国にも、どんな社会にも不条理はあるわけで、その中で、どうやって逞しく生きていくか?それを、いつの時代も多くの大衆が考え、実践してきたように感じます。
Posted by: 斉藤久典 | October 03, 2005 03:56 PM